復活節第6主日 神父様説教
今日の福音は、イエスが私たちを愛してくださったように互いに愛し合うことが、イエスの掟であると教えてくれています。イエスが私たちを愛するとは、私たちを罪の状態から解放し、神様から離れてしまっている私たちを神様と再び和解させるため、イエス自らすすんで十字架にかかってくださり、全身全霊を御父にお奉げになったことを意味します。この愛情をもって互いに私たちもイエスのように人を愛するならば、イエスの喜びが私たちの中にも実現されていくのだと言います。そのように愛する人がイエスの友となるのです。イエスはイエスの愛で愛し合うことを強く望んでおられます。
誰かのために自分のすべてを与えること、これがイエスの愛です。イエスの愛が自己犠牲と異なるのは、強いられてするのではなく喜んで相手のために与えるからです。イエスの愛の新しさは、自分の考える愛で愛するのではなく、イエスが愛された通りにそれを模倣して人を愛するのです。だから、イエスは私たちの師匠であり、先生なのです。この愛に生きた人はイエス以外にはいない、だから先生と呼べるのはイエスしかいません。
私たちはイエスが愛された通りに人を愛するのですから、どのようにイエスが人と関わってこられたのか知る必要があります。イエスと人との関りを知り、同じように行うことがイエスの愛に生きるという事になります。聖書全体を調べ、教会の言っていることを理解し、聖霊の促しによって行うことができるようになります。聖書全巻はイエスの愛について語る神様からのラブレターですし、教会はイエスを頭とする共同体ですし、イエスの霊が無ければ愛を行うことができません。人との関りをすべてイエス中心に考え行うことができれば、そこに神の国が現実として目の前に展開されていきます。
御父の存在も重要です。これらの行いは全て御父にお奉げすることになるからです。神様である御父がお喜びになる行いになっているか、自己満足の愛に陥っていないかを祈りながら行います。愛を行う時に人から拒絶されることもあるでしょう。イエスもユダヤ人指導者から拒絶された経験があります。本当の愛は理解されない苦しみを伴うかもしれません。また、愛を受け入れれられるには時間が必要かもしれません。これが愛だ!と思いこんで押し付けてしまっているかもしれません。悩みながら、苦しみながら、怒りながら、悲しみながらイエスも歩まれました。しかし、いつも御父に祈り、御父に向かって歩まれたのだと思います。
今日は、イエスの愛に生きることができるように、喜びのうちに愛を実行することができるように、悩みながらも諦めないで歩むことができるように、聖霊の働きを願いたいと思います。