年間第25主日(B年)
今日の福音ではイエスが弟子達に、これから神の計画によって、人の子に起こるであろうことを話した後の出来事が描かれています。
イエスが居なくなる、イエスと共に歩けなくなるという恐れの前に、自分達の中で誰が一番偉いかを論じ合い始めた。自分達でなんとかしようと思って、まず誰がイエスの代わりになる人かを決めるために論じ合っていたのでしょう。そこで偉いって何か、とイエスの言葉が皆のイメージや価値観をひっくり返させる。あなた達の間で偉くなりたい人が、力と権力をふるって主のように皆の前で歩くのでは無く、皆の後で皆に奉仕しながら、皆を支え、助ける人、僕(しもべ)のように歩みなさい。
聖書の言葉は昔の出来事を語っている歴史の本のようなものではないです。私達を導く神の命の言葉です。命がある言葉だから昔の導きなのに、現代でも似たような行動をくりかえしている私達にも導きを与えます。
今コロナの影響でミサがない、教会も閉めている所がふえて、感染リスクが高くなる状況の中で、私達も弟子達と同じようにイエスと共に歩けなくなる事を恐れて、他の人との交わりを避けて、自分で何とかしようと考え始めました。そしてミサや交わりで得ていった安らぎや支えは何かの代わりで満たそうと探します。しかし、ストレスがたまる一方で、今日も第二朗読で使徒ヤコブが私達にこう言います、「熱望しても手に入れることが出来ず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」使徒ヤコブの言葉が自分自身の希望とそれに基づく願いを見つめ直すように導きます。
私たちは今コロナの状況の中で神とどのような繋がりや関わりを望みますか。環境が整ったら、リスク無しの前のように戻ったら、そんな時に私達も前のような神との関係に戻れますという考えなのでしょうか。環境が悪い、コロナが悪い、そしてそれを許す神様は悪いと、犯人探しのよう考えが自分のどこかにあるのではないでしょうか。
イエスが人の子の受難を弟子達に話した時、必ず三日後に復活する事もお伝えになった、しかし弟子達はあまりにも悲劇的で復活に希望を置くことが出来ませんでした。今私達もコロナの悲劇の前で復活の希望を見逃さないように、使徒ヤコブが願い求めるように、私達に呼び掛けます。イエスは復活しました、聖霊が私達と共におられます。どんな状況でも私達は神と共に歩んでいる。恐れるな、ただ信頼を持って祈り求めなさい、今日も明日も私達に出来ることでは無いでしょうか。
(滋賀ブロック担当司祭)