4月10日 Message from Fr.Kim

聖金曜日(ヨハネ18・1~19・42)

5歳くらいの娘が牛乳が入ったコップを持って父親に差し出して近づいていきます。すると父親はカップの中を確認して、“牛乳がまだ残っているじゃないか。全部飲むとまたあげる”と答えました。そしたら娘は母親に近づいて行きました。母親は“カップを変えてもらいたいの? そのまま飲んで”と言いました。

最後に、娘は自分の兄に近づいて行きました。すると兄は、自分が持っていた物を妹のカップにぶつけながら「乾杯!」と叫んで一緒に飲むふりをしました。やっと5歳の子供は、明るく笑顔をしました。この娘の心を兄だけが、正しく分かりました。つまり、この子は牛乳が入ったカップをぶつけながら「乾杯」することを望みましたがママとパパは、そのようにしてくれなかったですよね。ただ兄だけがその心を読みました。

そうしたら、どうして兄だけが妹の心を読むことができたのでしょう?それは妹に対する理解と目の高さを合わせたからです。

私たちの生活の中でも、このような理解と相手の目の高さを合わせることは必要です。しかし、私たちは、相手が私を理解するだけを望んで、私は目の高さを合わせるより、相手が私の目の高さに合わせてくれることをを求めています。その結果、疎外されている人、痛みに苦しんでいる人々が増えざるを得ず、イエス様が示してくださった愛がますます消えてしまいます。 私だけの基準を合わせて考えると、神様の目の高さにも合わせなくなります。イエス様は自分自身が私たちを愛されたように私たちも互いに愛し合うことを望みました。だから、昨日は弟子たちの足を洗いながら大きい愛を示してくださいました。そして、今日はより大きな十字架の愛を示して、自分自身の愛に私たちの目の高さを合わすようにされました。それでも私たちは自分の思考や判断だけを出して、イエス様のみ心とは裏腹に進んでしまう時がたくさんあると思います。

聖金曜日を過ごしながら、私たちの愛の目の高さを改めて考えてみてください。私たちではなくイエス様に私たちの目の高さを合わせる時、イエス様が見せてくださった十字架の愛を私たちもこの世の中であかしすることができると思います。