復活節第2主日 神父様説教
2021年4月11日
ヨハネ20,19-31
ディディモ(双子)と呼ばれるトマス
復活の喜びを祝う八日の間、福音は、復活して弟子達を一人一人ずつ出会うイエス様の姿を語りました。そして今日、弟子達の中で最後にトマスに現れるお話を聞きました。今日はこの「使徒トマス」について分かち合いながら主の復活を黙想してみましょう。「トマス」の名前はマタイ、マルコ、ルカによる福音では十二使徒の名前としか現れませんが、ヨハネによる福音では三つの記事[1]に関連して9回現れます。「トマス」と言う名前はアラム語で「双子」の意味があります。また、もっと根本的な意味としては「二つの」や「二面性」の意味をもっています。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなけらば、わたしは決して信じない。」(20,25) この発言により、トマスは未だにイエス様の弟子達の中で不信と疑惑の代表者として私達の記憶に残っています。実際, 多くの人がトマスのこの言葉を使って、見て触れることだけを信じる現代の人々の不信と懐疑主義を表現しています。しかし、トマスはただの疑いばっかりの信じない方ではありません。むしろ彼は信じることを慎重に考える人で、そのために保証と確信を求める人でした。トマスは自分の前に現れた復活したイエス様が自分の基準と信念に、すぐに自分の不信を捨ててイエス様を信じました。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」
信じない人と信じる人が対照します。トマスと言う名前の意味のように、そして、これまでのトマスの二面性ように、この御言葉はイエス様の復活を信じるか、信じないかの対照があります。
イエス様のはっきりした要求は「信じる者になりなさい」です。これは単純なお勧めではなく、命令です。しかし、この命令はトマスの今までの姿を責めるためではなく、信じる者に達していないことをあわれに思われたのです。また、彼が堅い信仰を保てるように望む主の愛情表現です。まるで父が息子に「男は涙を流すのではない」と言うのと似たような言葉です。この御言葉を頂いたトマスは自ら主の復活を告白するようになりました。
ヨハネ福音書で語られるトマスは長い旅路を通して真理でない所から真理へと進みました。トマスは師匠と一緒に死のうと言った盲目的な信仰から始め(注釈①)、悩み不安な状態の条件付きの信仰にも落ちてしまいましたが(注釈③)、最後にはヨハネ福音書の最後に至って最高の信仰告白にたどり着きます。結論として、トマスは険しい信仰の旅路を象徵する人物です。
私達の生涯にも二面性や、二つに引き裂かれた心はなかったのか考えてみましょう。堅くイエス様を信じているのか?もし信じていないのなら、何が信仰と現実の違いを生み出しているのか?自分のどのような部分が絶望や失望を作っているのかを顧み、その部分をイエス様に委ねましょう。
「わたしの主、わたしの神よ!」
[1] ①ヨハネ11,16 (ラザロが死んだ後)トマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
②ヨハネ14,5(ユダヤが裏切りに外に出た後のお別れ話)トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
③ヨハネ20,25(復活したイエス様が弟子達に現れる)そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなけらば、わたしは決して信じない。」