キリストの聖体(B年)
マルコ14:12-16, 22-26
今日は聖書の中で、イエススの最後の晩餐の出来事が与えられます。イエススが、ご自分の受難を受ける前に弟子達と最後の夕食を食べ、そこでご自分をパンとぶどう酒の形でこの世に、われわれの間に残しくださった。命と力を与える食べ物の形で私たちに来てくださるのです。
食べ物といえば、神学生の頃に食べ物に関するエピソードを思い出しました。ある時、先輩達と外食に出かけました。神学院に入って一年目のことです。メキシコから来たグアダルペ宣教会の3人が日本の食べ物に親しむために、さまざまな物を注文しました。焼き鳥の盛り合わせ、ホルモンの味噌煮込み、鳥のからげ、キムチ盛り合わせ、川えびのフライ、ニンニクの串焼き、枝豆、など。私は全てを試しましたが、一番印象的なのはニンニクの串焼きでした。私は初めて焼いたニンニクを食べました、甘くて、あまりにも美味しいので2本も食べました。次の日私は神学院の朝ミサで侍者当番でした。神学院々長がメインの司式者でした。香部屋で、祭服を着るためをサポートしている時に、彼が私をジロジロと見ていました。入堂し、ミサが始まってから終わるまで彼は私をジロジロと見ていました。私は何かを忘れているのかと不安になりました。ミサが終わって香部屋に戻るとすぐ、院長様が私を呼んで尋ねました。「フェリペ、お前、ニンニクを食ったでしょう。」私は理解出来ませんでした。ミサは朝食前であるし、そんな時間にニンニクを食べるはずがない。「いいえ」と答えました。「食ったでしょう!!」と院長様が強く言い出しました。私は何の事か理解するよう一生懸命に考えました。そして昨夜のことを思い出しました。「はい!昨夜、食べました!」と答えました。彼は言いました。「お前、臭い!!」
今日イエススの聖体の祭日にあたって、このエピソードを思い出しましたが、今でも分からないのは、どうしてニンニクを食べたことが時間を過ぎても伝わるのに、ご聖体拝領をして、イエスス様を頂いても伝わらないのか…。神父様は聖変化の後に「信仰の神秘」と言います。つまり信仰によって行われる神秘。私たちは何をいただいているのでしょうか。イエススの体ですか、それともパン種なしのパンでしょうか。ご聖体はニンニクに負けていることは事実です。イエススに触れられただけで生き方や命まで変られた人々は、聖体拝領でイエスス全体をいただている我々に何を言うのでしょう。
(滋賀ブロック担当司祭)