年間第29主日(B年)
何年か前のことです。青少年達に教理の講座をしているとき、一人が質問をしました。「プロテスタントの十字架にはイエス様がいないのを見ましたが、どうしてカトリックの十字架にはイエス様がいるんですか?」私も気になって知り合いのプロテスタント教会の牧師先生に聞いてみました。牧師先生は次のように答えました。「イエス様は十字架で亡くなった後、復活していつも私達と一緒におられます。なのでもう十字架にいる必要はありません。」カトリックの信仰ととても似ていて納得しました。確かにイエス様は復活して私達と一緒におられます。しかし、カトリックの十字架はほとんどイエス様が十字架にいます。苦しそうで痛そうなイエス様をどうして残したのでしょうか?その答えは「愛」にあります。
世の中には色んな愛の形があります。親と子供の愛、恋人の間の愛、動物や自然との愛など、様々な愛があります。これらの愛の関係を深く覗いて見ると、愛を与える方には色んな犠牲や努力があります。休日なのに子供のために疲れた体を動かして出かける親、忙しい中でも親にお見舞いに行く子供、恋人のためにお土産を買ったり、一緒に行く場所をネットで検索したり、ワンちゃんと一緒に散歩に行ったり、花や木に毎日水を与えたりなど、愛には楽しいこともありますが、それと共に犠牲や努力が伴います。愛を知らない人から見るとバカと思われるかも知れませんが、愛を知っている人々はその犠牲や努力を越える嬉しさがあるから、その行動を続けます。
今日の福音はイエス様が弟子達に苦難を受けることを予告しました。しかし、弟子達は苦難には興味が無く、名誉とか権力の栄光だけを考えていました。苦難の無い栄光、それは本当の栄光でしょうか?犠牲や努力の無い愛、それは本当の愛でしょうか?弟子達の姿を見ていると私達の人生も過程は無視して結果だけを大事だと思ってはいなかったのかと反省します。
カトリックの十字架にはまだイエス様があります。苦しみの無い愛は空っぽの愛です。私達はイエス様の犠牲を忘れてはいけません。命を捧げた犠牲があって、復活の栄光もあります。十字架を見る度、私達もたくさんの方々の犠牲と努力のお陰で今、生きていることを思い出しましょう。そして、私達も誰かのために愛の十字架を背負って、本当の愛、栄光の道を歩んでいることを思い出しましょう。